舞岡営業所 車両表 引退車両(〜1986年下期、旧塗装車)

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社番 型式 年式 ナンバー 除籍年 メモ
お7三菱***(呉羽)19**年横浜22か不明 
三菱MR***(呉羽)19**年横浜22か不明 
お37三菱B800N(呉羽)19**年横浜22か不明 
お101三菱MP117N(呉羽)19**年横浜22か不明 
お106いすゞBU20K(川重)19**年横浜22か不明試作冷房車
三菱K-MP118N(呉羽)198*年横浜22か不明 
日産デK-U31N(FHI[3E])1981年横浜22か不明以下、冷房車
お105三菱K-MP118N(呉羽)198*年横浜22か4343不明 
お44三菱K-MP118N(呉羽)1983年頃横浜22か不明 
お73日産デK-U31N(FHI[5E])1983年横浜22か4768不明 
お136日産デP-U32N(FHI[5E])1984年上横浜22か不明 
お24三菱P-MP118N(呉羽)1984年上横浜22か1992年頃 
お110三菱P-MP118N(呉羽)1984年上横浜22か1993年頃 
お7三菱P-MP218M(呉羽)1984年下横浜22か1993年頃 
お67三菱P-MP218M(呉羽)1984年下横浜22か1993年頃 
お99三菱P-MP218M(呉羽)1985年上横浜22か1994年頃 
お3三菱P-MP218P(呉羽)1985年下横浜22か1995年頃以下、大型方向幕(黒幕)
お18三菱P-MP218P(呉羽)1985年下横浜22か1995年頃 
お32三菱P-MP218P(呉羽)1985年下横浜22か1995年頃 
お34三菱P-MP218P(呉羽)1985年下横浜22か1995年頃 
お35三菱P-MP218P(呉羽)1985年下横浜22か1995年頃 
お36三菱P-MP218P(呉羽)1985年下横浜22か1995年頃 
お37三菱P-MP218P(呉羽)1985年下横浜22か1995年頃 
お38三菱P-MP218P(呉羽)1985年下横浜22か1995年頃 
お39三菱P-MP218P(呉羽)1985年下横浜22か1995年頃 
お126三菱P-MP218P(呉羽)1985年下横浜22か1995年頃 
お40三菱P-MP218P(呉羽)1985年下横浜22か1996年上 
お95三菱P-MP218P(呉羽)1985年下横浜22か1996年上 
お139三菱P-MP218P改(呉羽)1986年上横浜22か55191997年上以下、車内床敷物張り
お14三菱P-MP218P改(呉羽)1986年上横浜22か1996年下頃 
お17三菱P-MP218P改(呉羽)1986年上横浜22か1996年下頃 
お19三菱P-MP218P改(呉羽)1986年上横浜22か1996年下 
お76三菱P-MP218P改(呉羽)1986年上横浜22か1996年下 
お79三菱P-MP218P改(呉羽)1986年上横浜22か1996年下頃 
お80三菱P-MP218P改(呉羽)1986年上横浜22か1996年下 
お81三菱P-MP218P改(呉羽)1986年上横浜22か1996年下中扉窓丸み無し
お82三菱P-MP218P改(呉羽)1986年上横浜22か1996年下 
お85三菱P-MP218P改(呉羽)1986年上横浜22か1996年下頃 
お92三菱P-MP218P改(呉羽)1986年上横浜22か1996年下頃 
お84三菱P-MP218P改(呉羽)1986年上横浜22か55801997年上 
お87三菱P-MP218P改(呉羽)1986年上横浜22か55861997年上 
お88三菱P-MP218P改(呉羽)1986年上横浜22か55871997年上 
お89三菱P-MP218P改(呉羽)1986年上横浜22か55881996年下頃 
お90三菱P-MP218P改(呉羽)1986年上横浜22か55901997年上 
お127三菱P-MP218P改(呉羽)1986年上横浜22か56041997年上中扉開閉ブザ旧タイプ→後に交換
お128三菱P-MP218P改(呉羽)1986年上横浜22か56051996年下頃 
お140三菱P-MP218N(新呉羽)1986年下横浜22か57361998年下頃 
お96三菱P-MP218N(新呉羽)1986年下横浜22か57431998年上 
お98三菱P-MP218N(新呉羽)1986年下横浜22か57441998/4 
お15三菱P-MP218N(新呉羽)1986年下横浜22か57471998年下 
お94三菱P-MP218N(新呉羽)1986年下横浜22か57551998年上 
お71三菱P-MP218N(新呉羽)1986年下横浜22か57581997年下頃 
お33三菱P-MP218N(新呉羽)1986年下横浜22か57661998年下頃 
お101三菱P-MP218N(新呉羽)1986年下横浜22か57671998年下頃 
お102三菱P-MP218N(新呉羽)1986年下横浜22か57681998年下頃 
お69三菱P-MP218N(新呉羽)1986年下横浜22か57821998年下頃 
お43三菱P-MP218N(新呉羽)1986年下横浜22か57831998年下頃 
お112三菱P-MP218N(新呉羽)1986年下横浜22か57921998/4 
お137三菱P-MP218N(新呉羽)1986年下横浜22か57931998/4 

■当サイト作者の舞岡車懐古記(三菱車)
 長尺車が特に主力で、三菱以外のメーカーも投入していた頃の舞岡車です。私の記憶で最も古い車は三菱B800Nです。現在の「横43」系統に当たる路線で乗車したこともあります。ドア側窓配置のうち、前扉〜中扉間の窓配置が[前扉-二段窓×3-行き先表示窓-極細固定窓-戸袋窓-中扉]という特徴的なもので、エンジン音も当時近所を走っていた相鉄のMP117とは全く違うものでした。相鉄のMP117のエンジン音は何となくMP218に通じるものがありましたが、舞岡のMP117は見た記憶がなく、周囲の人に聞いたところ、少数ながら在籍していたとの事で、また、更に遡っていわゆる「バス窓」のMR系長尺車も存在していたそうです。
 MP117になると二段窓が上段下降可能となり、前扉〜中扉間の窓配置が[前扉-幅広二段窓×2-行き先表示窓-戸袋窓-中扉]というシンプルなものになったと見られ、後のMP118にも引き継がれました。MP118では、上段下降式のユニットサッシ二段窓が標準となり、側窓のサッシ部が非常に目立つものとなりました。MP118は本当に多かった車両で、神奈中=MP118という時代もあったかと思います。このMP118は初期に登場した車は非冷房車でしたが(少数派?)、後の増備車から横流ファンと併用して一番後ろにエアコンユニットが乗ったおなじみスタイルの冷房車となり、かなりの台数が見られました。舞岡では1984年上期の最終モデルまで増備され、このグループになると、横流ファンの断面形状が蒲鉾形から箱形に変わり、エアコンユニットも高さがやや低くなるなど形状変更が行われました。日産デ車も含めて、非冷房車が在籍していた頃は、冷房車の前面バンパーに円形の「冷房車」という表示板を取り付けて走っていました。この円形板にはペンギンの絵も描かれていて凝ったものとなっていました。
 1984年下期車からいよいよ「三菱エアロスターK」が登場しています。1984年下期車と1985年上期車については長尺車が主力だった舞岡では異例の中尺車(軸間5.3m)が投入されました。1984年下期車のうち、最も初期に投入された車両は側面最後部のエアコンダクトカバーの形状が以降の車と異なっていたことや中扉開口部(上部)の形状も以降の車両は丸みが付いているのに対して、全て直線で構成されているなどの違いがあったと記憶しています。1985年上期車になると、前扉開口部(上部)に雨どい状のものが付き、ややいかめしい感じとなりましたが、最終的にはこの形状で増備が続くので、1984年式は「のっぺり」とした前扉上部が特徴となりました。ところで、1985年上期車までは中扉窓に丸みのない真四角だったことや、後述の富士重5E車体の車同様に、前面が大型方向幕対応にもかかわらず、天地寸法の小さな白地方向幕を使用したため、フロントガラス内の方向幕上下に黒いフィルムが張られ、独特のマスクだったことも記憶にあります。1985年下期車になると、MP118以来の長尺車が投入されますが、この時の三菱の長尺車は軸間6.0m(P尺)で、実に長かったという印象が残っています。仕様の変化としては、行き先表示に大型の黒地方向幕が用いられ、車内のエアコン吸入口形状変更、中扉窓に丸みが付いたことがあります。軸間6.0mの長尺車は舞岡では1985年下期車のみとなってしまい、1986年上期車からは軸間5.8mの若干短い長尺車となりました。この1986年上期車の製造銘板を見たところ、型式がP-MP218Pと記されており、P尺の短縮改造扱いの車だったことが伺えます。このグループから車内に床敷物が張られました。なお、「お81」に関しては中扉を交換したようで、この年式にも関わらず、真四角の中扉窓が特徴的でした。1986年下期車も同一の長さで投入されましたが、今度は軸間5.8mがN尺として設定されたため、製造銘板を見るとP-MP218Nと記されていました。側窓のサッシ形状が変更され、大きく印象が変わりました。また、中扉開口部(上部)の丸みが中扉窓の丸みと同心円状になるよう小さくされました。この年式の特徴として、車内のつり革固定金具が通路側に付いているということがありました。通常は目立たないように座席側に取り付けられていますので、かなり異彩を放っていました。車内側の行き先表示窓部分の造作にも特徴があったと記憶しています。

■当サイト作者の舞岡車懐古記(日産ディーゼル車)
 三菱車が投入される一方で、富士重工製車体を架装した日産デ車も投入されていました。やはり三菱車同様に長尺車で、三菱車(軸間5.8m)より若干短かった(軸間5.5m)のですが、堂々とした長尺車でした。冷房車以降の記憶しかありませんが、非冷房車も存在していたと思われます。R13型3Eボディの冷房車は車体長手方向の中央付近にエアコンユニットを搭載し、蒲鉾形横流ファンがエアコンユニットを挟んで前側に2つ、後ろ側に3つ搭載されていました。この屋上機器配置は後の5E車体にも受け継がれていますが、非常に見栄えが良く、上段下降可能な二段窓や窓配置も大好きで、3E車体の冷房車は特にお気に入りだった記憶があります。後に車体のモデルが5Eに変わりましたが、リベットを使用した車体の1983年式は戸袋窓がHゴム支持の四隅に丸みがある特徴がありました。またリベットレスの1984年式も存在したようで、こちらは戸袋窓の支持方法が変わり、四隅の丸みが無くなりました。5E車体の車は、前面のナンバープレートがバンパー取り付けではなく、車体側に設置されていたため、前面のいわゆる「金太郎塗り」がナンバーに食い込まないよう、非常に浅いものとなっていたり、青紫色のマーカーランプがフロントガラス内方向幕両側に配置され、更に大型方向幕対応にも関わらず、天地寸法の小さな白地方向幕を使用していたため、フロントガラス内の方向幕上下に黒いフィルムが張られていたので独特のマスクとなっていました。乗車した記憶のある5E車体の車において、晩年は全部の座席が赤色の三菱車に先駆けて、優先席が青色となりました。日産デ車は1984年式を最後に舞岡への投入は行われていませんが、5E車体の車は一部が神奈中で除籍後、栃木県の関東自動車に活躍の場を移し、近年まで活躍していました。この頃の神奈中における車両置き換えペースは7〜8年と見られ、私が日産デ車を見かけたのも数回程度で、乗車することも出来たものの、気が付いた時にはもういなくなっていた、という覚えがあります。彼らは神奈中よりも関東自動車歴のほうが長くなってしまったということになります。
 ところで、本格的な冷房車が登場する前に各営業所に「試作冷房車」が投入され、営業所の都合で三菱MP117(呉羽)・日産デK-U31N(富士重3E)・日野K-RC321(日野車体工業)・いすゞBU20K(川重車体)の各型式があったようですが、舞岡にはなぜか異例のいすゞ長尺車が投入されたことは特筆に価します。本来であれば、三菱車か日産デ車となるところだと思われます。長尺のいすゞ車が舞岡に存在していたことは興味深いです。


資料ご提供:かなち様
いつもありがとうございます


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